教員時代の体験 池田良子先生2

私が大学を卒業するときに、大濠養護学校(いまの中央特別支援学校)など数校の養護学校がありましたが、養護学校の道を選びませんでした。小学校のなかにいて,そこで統合教育をやろうと決めていたからです。1976年9月に簀子小学校に通級の情緒学級ができることになり,私が9月1日に中途採用されたんです。

簀子小学校の2階に通級の情緒学級ができて,よその学校から通級で情緒の子どもたちが週に1回,運動場の真ん中を通って保護者に連れられてやってきます。9月1日から開級されたのですが,2年生の教室と情緒学級の教室の間の防火壁のシャッターが突然降ろされたのです。そして子どもたちは,防火壁の向こうの情緒学級側の階段を,のちのち「魔の階段」と呼ぶようになりました。「この階段登るとこわいよ。2階に情緒学級ができたよ。」

私は「これはおかしいやん。何のために通常の学校に情緒学級ができたの?みんなで一緒に学ぶためでしょ?」と職員会議の席で必死に訴えました。そのあと防火壁があがりましたが、それに1年かかりました。

1979年の養護学校の義務化は,就学の免除,この子は障がいが重度だから教育を受けなくていいですよと,家の中に押し込められていた子どもたちに,やっぱり憲法や教育基本法の理念に沿って,教育を保障しましょう,というのがもともとのスタートです。当事者の運動から生まれたのです。それで義務化になったんです。

養護学校ができた,そこに専門の教員がいる,金をつぎ込む。ところが,重度の障がいで学校に通えないお子さんは訪問教育という形をとりました。金をつぎ込んだからには,定数を確保したい。しかし子どもが集まらない。何をしたかというと,それまで地域の小学校の「特殊」学級にいた子どもたちを養護学校に編入させたんです。私は逆流現象と言っています。地域で学んでいた子どもたちを,わざわざ養護学校に隔離したのです。私は生の松原養護学校ができたときに,専門免許を持っているということでそこに転任になりました。そのとき,定数は一学級8人でした。今津養護学校もありませんでしたので,肢体不自由の子も半分いました。そして教員は2人です。とても大変な状況でした。そこで私のクラスの8人のうち3人のお母さんが,なんと,「地域の学校にいたのだけど,専門教育が受けられるから養護学校に行きませんか,という誘いで養護学校に来ました。」それはあなたがたの本意でしたか?と聞くと,「ちがいます。そこの学校がよかった」と。そこでつくったのが「母と女性教職員の会(母女の会)」です。それと「語る会」という親の会もつくって,毎月第2土曜日の午後やっていました。

私は養護学校に9年間いました。このなかで3人の子どもを地域の学校に帰しました。やっぱり一人帰すには3年かかります。帰った先はみなさん特別支援学級でしたけれども,地域の学校に戻りたいということで学校と話し合いをします。Aさんは肢体不自由でした。そこで拒否がありました。今でいうバリアフリーになっていない。段差があるということで,「じゃあ,段差をなくしてください」とお願いすると,「いや,予算を組んでいない。」「来年でもいいから予算を組んでください。」という交渉をしました。

かつては知らずに来る,いわゆる専門教育を受けられるという思いだけで来る方がありました。けれども,やっぱり何を大事にしていくか,この子の一生をトータルで見たときに。そういうのを保護者の方たちと勉強会をしてきました。

池田良子(よしこ)先生プロフィール

池田良子先生福岡市議会議員。教育・福祉・子育て・人権問題など幅広く活躍されています。議員になられる前は福岡市で小学校、特別支援学校の教諭をされていました。

※今回の記事は2016年8月21日に福岡市で行なわれた勉強会「第29回 福岡市「障がい」児教育を考える集会」でのご講演の内容から,池田先生の許可を得て掲載したものです。

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